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亀田郷の説明 亀田郷の特色をご紹介します。

江南区≦亀田郷について

河川に囲まれたゼロメートル地帯

私たちの江南区は、「亀田郷」と呼ばれてきた地域の中心に位置します。「亀田郷」の概念なしには、江南区を語ることはできません。「亀田郷」は江南区のアイデンティティなのです。

「亀田郷」とは、現在の新潟市中央区と東区の南部、江南区のほぼ全域にまたがり、信濃川、阿賀野川、小阿賀野川に囲まれた地域の総称です。古くは横越島といわれ、大正時代から亀田郷と呼ばれるようになりました。

夏は緑、秋は黄金色のじゅうたんがどこまでも見渡せる田園風景、それでいて大型商業施設や工業団地が林立する風景……これが今の江南区の姿ですが、このように多様な土地利用がされるようになったのはそんなに昔のことではありません。半世紀ほど前までは湖のような湿田が広がり、点在する集落は湖水に浮かぶ島のようだったといいます。

亀田郷は河川に囲まれ、海面より低いゼロメートル地帯がその土地の2/3を占めているため、古くから幾多の洪水の被害に苦しめられてきました。また、司馬遼太郎の「街道を行く~潟のみち」で紹介されているように、水田は湖と見まごうばかりで「芦沼」と呼ばれ、腰まで水に浸かっての田植え、田舟を押しての稲刈りなどの過酷な農作業の連続でした。

CHECK!!

こんな風に変わりました

以前の亀田郷
亀田郷の美田

湿田を乾田に……、重ねられてきた努力

湿田を乾田に変えるために様々な努力が重ねられてきましたが、阿賀野川と信濃川を収めることが必要でした。信濃川では流域住民の悲願であった大河津分水が明治42(1909)年に着工され、昭和2(1927)年に完成。また、大正2(1913)年の水害を機に洪水の元凶である阿賀野川の改修工事が始められ、19年を経た昭和8(1933)年に完成しました。これらの工事により亀田郷の水害の危険性は大きく減少しました。

一方で、郷内のたまり水の排水のための取り組みも行われました。20世紀初頭から動力ポンプによる排水機が導入され、戦時中から亀田郷一帯の用排水工事が始まり、昭和24(1949)年に当時東洋一とうたわれた規模の栗ノ木排水機場(東区)が完成し、亀田郷の排水機能を飛躍的に向上させました。これにより、近くの鳥屋野潟の水位が90cmも下がったほどでした。また、あわせて大規模な土地改良工事が始まり区画整理や用排水路が整えられていきました。これらの行政単位の枠を超えた、治水利水の取り組みにより、今日のような日本一の美田といっても過言ではない優良農地に生まれ変わったのです。

現在ここに住む私たちは、これらの古くからの壮絶な水と土との闘いの歴史があったことを実感できない生活をしていますが、先人たちの不撓不屈の努力に感謝し、市内外の人に、次代を担う子供たちに伝えていきたいと思っています。

亀田郷は米、野菜の一大供給地帯

国内でも指折りの穀倉地帯に変貌した亀田郷ですが、肥沃な土壌を生かし、米以外にも野菜や果物の生産が盛んです。江南区でも品質の高い農作物がたくさん作られており、梅、長いも、梨、そらまめ、とうもろこし、ししとうなどは県内有数の産地となっています。

別の視点から見る亀田郷

亀田郷→水郷→水の都といえば「ベネチア」を連想しますが(!!)同じ「低湿地」という観点から、意外に多い「水の都ベネチア」との共通点を見つけました!

水に囲まれた地域で舟運が発達し、商業が栄えた

小阿賀野川と信濃川の合流点と亀鶴橋

土地の低い亀田郷ですが、砂丘列も多く、そこを中心に古くから集落ができていました。亀田地区は新潟方面からの舟運と会津からの陸路の結節点である利点を生かし、織物や生活物資などを運ぶ商業が栄えていました。特に亀田縞(綿織物)を扱う商人は関東や北海道にまで販路を開拓していました。横越地区木津は鎌倉時代から戦国時代末までに登場する木津氏と関係が深い湊町と考えられており、阿賀野川は越後と会津を結ぶ交易水路として重要な動脈だった古い歴史があります。酒屋地区は阿賀野川と信濃川の舟運を生かして船着場として繁栄し、材木の一大集積地となって豪商が活躍しました。

「潟」のつく地名がとても多い(ベネチアも世界遺産の名称は「ベネチアとその潟」なんです)

鵜ノ子潟の碑

亀田郷は信濃川と阿賀野川が運んできた土や砂によって埋め立てられてできたため、たくさんの沼や潟がありました。長潟、丸潟、鍋潟、前潟、べら潟、そえ潟、面潟、鵜ノ子潟、果ては泥潟……古地図に出てくる潟の名称や地名です。今ではほとんどの潟は埋め立てられましたが、今でも地名が多く残っており、水鳥の飛び交う、芦の茂った潟の様子を想像することができます。

道路は水路のあと

あんこ船

湿地を開発して作られた地域のため水路がたくさんありました。集落に入ると、蛇行した広い道路を見かけますが、道路と並行する水路を埋め立てたために広がったものも多いのです。幅の広い川はあんこ舟と呼ばれる木造船が人や物資を運んだり、狭い堀は地域の生活用水や排水路として使用されていました。