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亀田郷のお話 亀田郷についての歴史や、こぼれ話を連載します。

第26回 曽川切れ(4) 栗ノ木川石造水門爆破 その二

2011.11.10

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栗ノ木川石造水門爆破を伝える「新潟新聞」

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「新潟新聞」の記事では,「石造水門」の爆破の有様が以下のように詳述されています。

  付近一帯危険の迫れるため,警官は声をからして群衆一同を他へ避けしめ,爆発決行の時を待つ。6時30分,すわや口火は点ぜられぬ。
 たちまち轟然たる爆音と共に,濁水はあたかも天うつ浪の如く,巨石粉砕水煙火柱天に沖し,壮絶凄絶の状眞に言語に絶す。
 と見る間に幅三間,高さ十数尺のさしも堅牢なる中央石水門は,その五分の一を破壊され,その水面上を露出せる頭部跡方も無く,濁流その上を奔下す。
 次で7時10分,再びダイナマイトの装置を終わり,轟然爆発せしめ,ここに於て更に残部はほとんど粉砕し去り,濁流は漸次猛烈となり,付近の水勢渦を巻いて危険甚だしく,容易に近付くべからず。装置頗る困難に陥る。
 ここにおいて,勇敢なる消防夫の活動となり,危険を冒して水中に飛び入り,渦巻く激流と奮闘すること暫し、漸く3回目のダイナマイト装置を終わると,口火は点ぜられ,8時,更に天地も砕けんばかりの一大音響と共に爆発したるより,残部は見ん事に粉砕し去らる。
 濁水たちまち滝,津波の如く,轟々滔々信濃川へ落込む。 凄まじ何とも形容の辞なし。
 同時に付近一帯に氾濫しつつある濁水は,これまたその余勢を受けて流動し,刻々その勢を増して奔流し,三十分と経たざる内,早くも入船町一町目付近は,1尺の減水を見たり。
 さればいよいよその残底を破壊し去るべく,8時30分,9時の両度引き続いてこれを爆発せしめ,ついに大成功裡に全部の粉砕をなし終わんぬ。
 濁流は,刻一刻減水しつつあり。12時には,すでに付近の減水2尺に及びたり。
 以上の如く,栗ノ木川石水門中央一個所の破壊により,さしも暴威を逞しうしつつある濁流も,刻々減水しゆくの好成績を収め得たるより,4日早朝,さらに両端の二個所をも爆破し去るべく,徹夜これが準備をなし居れり。
 4日早朝,本県より中村,湧井の両技師現場に出張し,破壊に着手し,2発のダイナマイトを以て,全部を破壊しつくしたるが,これがため,濁水は一層激出せるより,沼垂氾濫は減水また減水に正午頃には,すでに2尺以上を減じ,全町約七分の一位は,床上浸水の憂き目を脱することを得,街路も各所に露出するに至りしより,全町民は狂喜して,寸時も早く全町より濁水の減退するを待ちつつたり。
 
大正6年10月2日未明に発生した「曽川切れ」は,このように一応解決の目途がたちました。
「水と土と農民」(亀田郷土地改良区)では,この「曽川切れ」での亀田郷農業の被害について,
「当時の全耕地6,480町歩の約9割にあたる6,020町歩が冠水した。破堤箇所の曽野木村,中央低湿地の
「鳥屋野村・石山村・早通村の計4ヶ村が,100%の冠水率であったため,泥土の埋没によって荒蕪地となった田畑は,100町歩」と伝えています。
多くの鉄橋に被害があった信越線の損害も軽微なものでなく,復旧に時間がかかりました。
爆破された栗ノ木川逆流防止のための石造水門は,大正7年に復旧されました。
この「曽川切れ」以後,阿賀野川改修や大河津分水完成などもあり,亀田郷では洪水による被害はなくなりました。
亀田郷の人々にとっての悩みは,鳥屋野潟を中心とした湛水問題だけとなりました。
 
今回のお話のキーワード
石造水門
亀田郷農業の被害

第25回 曽川切れ(3) 栗ノ木川石造水門(石造閘門)爆破 その一

2011.10.11

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「栗ノ木川石造水門」の位置図(地図は大正3年版地形図より)

Story

 泥の海と化した沼垂は,3日午後四時になってもなお刻々増水し,何時減水するかほとんど予測できないほどでした。

 倒壊する家屋もふえる一方です。 このままもう一昼夜過ぎたら,沼垂全町は容易に再起不能となるのではと考えられました。

 それを避けるため,萬代橋の上流450mの鳥屋野村大字上所あたりの信濃川堤防を約3間切り払い,排水を試みました。
 しかし,沼垂よりも上流部であったので容易に減水せず,さらに夕刻には,正午頃より2寸の増量を見るほどでとなりました。
 この上は,栗ノ木川の下流にある俗称「石造水門」を破壊するの外ないと考えられました。
 石造水門を破壊すれば減水間違いなしと考えられ,直ちにこれを爆破する事に決したのです。
 石造水門は,3月号で詳述した通り,信濃川から栗ノ木川への逆流を防ぐために苦労して設置したものでしたた。
 今回の水害は,皮肉にもその石水造門が,栗ノ木川からの排水を妨げる水門となったのでした。
 石造水門爆破は,容易なものではありませんでした。
 新潟市は,新潟消防組員等二百余名を急派して,その準備に着手させました。
 一方,四時半,県より土木課中村技師,保安課湧井技師の両氏が,ダイナマイトの用意をした上,同所に急行し,石造水門の実況を検分し,爆破の準備を急ぎました。
 現場は,濁流が矢のごとく奔流し,小船で近づくことも容易ではありませんでした。
 そのため,ダイナマイト装着の準備は,すこぶる困難を極めました。
 しかし,勇敢な消防夫の必死の奮闘によって,午後6時準備が完了しました。
 

 

今回のお話のキーワード
石造水門
ダイナマイト

第24回 曽川切れ(2) 亀田の洪水騒ぎ 床上浸水6尺

2011.09.07

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「曽川切れで水没した亀田町」(「写真集 亀田の百年」)

Story

大正6(1917)年10月2日、曽ノ木方面堤防破堤の連絡が亀田町に届きました。

破堤した濁流が、町に押し寄せてくるのを、泥潟堤防で食い止めなくてはなりません。
亀田町では警鐘を乱打し、消防隊を出動させて町民と協力、防御の準備に尽くしました。
役場の職員も総出となり、町民と共に必死となって防ぎました。
しかし、濁流は次第に増水して堤防に押し寄せました。
ついに午後6時、頼みの泥潟堤防は破られてしまいました。
あとからあとから押し寄せる濁流はすさまじい勢いで、東西より亀田町を襲いました。
そのため、全町大混乱の巷と化してしまいました。
亀田町は全戸数1610戸中、床上浸水が742戸、床下浸水が173戸という災厄でした。
床上浸水が6尺余に達した家さえありました。
袋津方面はやや被害は少ないものの、4年前の木津切れに比べると1尺以上の浸水でした。
そのため、町内では、その日の食事に困窮する人も多数出ました。
(困窮した町民の救済としての炊き出しなどについては、5月号でお伝えしました。)
亀田を襲った洪水の影響は大きいものであったのです。
この洪水で、鉄道も大変な被害を受けたのです。
新潟と亀田間の鉄道線は、全部濁流を以て覆われてしまいました。
2日午後7時半、沼垂ー亀田駅間の線路10余間欠壊し押し流されました。
両駅間の十余個所の鉄橋は、ほとんど全部沈下または破壊、墜落のありさまでした。
上りは午後7時8分から、下りは午後8時15分新潟駅発より全列車運転中止となりました。
3日も依然運転中止となり、全く交通運輸の杜絶という有様でした。
その後なおも漸次増水の傾向あり、惨害の程度は、益々激甚となりました。
被害の状況から、鉄道復旧は、減水後少なくとも1週間以上は必要と考えられる程でした。
郡内の亀田以外の町村での被害も激甚でした。
被災地巡視の北川県知事は、破堤場所の締め切り工事を急がせました。
さらに、信濃川の減水を見て、郷内の濁水を減らすため信濃川堤防切り払いを命じました。
萬代橋の上手、上所地内の堤防を3間ほど切り払わせたのです。
しかし、これで洪水の被害が解決というわけには行きませんでした。
逆に、夕方には再び増水し始めました。
亀田郷の排水路である栗ノ木川が、今回の洪水では機能しなかったのです。
栗の木川の信濃川への出口「石造水門」が、濁水排出を逆に食い止めていたのです。
明治32年、信濃川からの逆流防止のため苦労して作った水門でした。
今回は、この「石造水門」の爆破しか、洪水排除のために残された道はありません。
爆破作業には,3日の午後からとりかかりました。
 
今回のお話のキーワード
泥潟堤防
堤防切り払い
石造水門

第23回 曽川切れ(1) 曽川切れの沼垂町

2011.08.09

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写真「曽川切れの時の沼垂町」(『写真集ふるさとの百年』《新潟日報事業社》)

Story

歴史に残る「曽川切れ」は,大正6年(1917年)9月末日に上陸した台風によるものでした。

台風は,沼津に上陸,関東より奥羽東部へと北進して各地で死者1127人を出したのです。
新潟県への影響も大きいものでした。
大雨は,長野県・福島県・新潟県内南魚沼等で160ミリ~220ミリを超えました。
最高水位は,阿賀野川筋の津川で34尺,信濃川筋の小千谷で17.5尺でした。
10月2日未明,天野新田地内の用水樋管の所で堤防が決壊しました。
最初の破堤場所は,曽野木村大字曽川新田地先大野に通ずる天野地内渡場付近です。
信濃川,小阿賀野川,大通川,中ノ口川などの川々が、互いに影響しあう場所といえるあたりです。
午前3時半頃,信濃川堤防は6尺余り決壊して濁流が流れ込み始めました。
村民50余名で防禦に努めましたが,ついに12時頃に至り,約120間が決壊してしまいました。
これより先き,午前9時頃,第二親松堤防が決壊,濁流が相い合して非常な勢となりました。
濁流は,一方は早通村を経て鳥屋野潟方面に進み,一方は酒屋町方面に逆流,一方は鳥屋野村より石山村に出て栗ノ木川から沼垂町を襲わんとし,一方は亀田町に浸入せんとしました。
沼垂町,早通へ向かった濁流で,午後1時30分には沼垂の一部低地は,徐々に浸水し始めました。
県では応援巡査30名を曽川方面へ,50名を沼垂方面へ派遣しました。
また,新潟消防隊では警鐘点打の上,応援消防隊300余名を召集,即刻急行させました。
鳥屋野潟や栗ノ木川に注いで沼垂町へ向かった水流は激しいものでした。
沼垂町民は,新潟市消防団の応援を得て栗ノ木川堤防嵩上げを行い,浸水防禦に努めました。
しかし,午後7時頃には,その堤防も破られ,濁流奔騰,全町たちまち阿鼻叫喚の巷と化しました。
全町が泥海の如く化してしまったのです。
屋内はすでに濁流流れ込み,床上げする暇もなく,泥水の流れるが侭のほかなしです。
家の中では,家具家財の取片付けで忽ち戦場と化しました。
子どものいる家は,にわかの洪水に驚き,悲鳴を上げて避難するほかありません。
8時過ぎ,既に沼垂町一ノ町より五ノ町方面は,街路の上,約4尺以上に達しました。
家々への浸水4尺~5尺位で,二階のない家は,社寺及び鉄道線路上に避難する者多数でした。
白山神社を始め,各寺院は,ほとんど人と家財道具で埋まってしまった程です。
全町すべて浸水しない所はない状態でした。
ことに最もひどかったのは,馬越往来及び沼垂停車場付近,蒲原長峰方面でした。
この方面は,ほとんど家に居れない程の惨害を蒙りました。
家財道具もすべて水に濡れ,あるいは押し流されたのです。
栗ノ木川上手の月見橋は流失し,栗ノ木川鉄橋も多少動揺を感ずる様になりました。
鉄道と郵便物は不通となりました。
飲料水も欠乏し,新潟から艀五隻で運搬し,給水しなければならない地域も出ました。
沼垂小学校は三日以来休校せざるを得ませんでした。
 
今回のお話のキーワード
信濃川堤防
第二親松堤防
栗ノ木川堤防

第22回 亀田郷での「木津切れ」の被害の様子とそれ以後

2011.07.08

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阿賀野川の現在の河道

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新潟新聞では,さらに亀田郷全域の惨状を「これが結果として濁流滔々としてほとんど二十一大区の全部を襲い,亀田方面は,昨日中なお湛水四五尺に及び,沼垂方面もまた,しばしば鐘を鳴らして法螺を吹きて防禦に力め,下流地方の横越小杉の耕地は,残す所なく浸水して,大淵蔵岡方面もまた床上浸水の惨状を呈せり。堤防欠壊の全長は,24間に及び,村民は総出で水戸止めに尽力しつつあるが,大字木津にて奔流中に流失せる家屋17戸に及び,立木に上り避難せる者,立木の根こそぎとなりたるため,相抱きてみるみる水中に没する者,乳倉に乗りたるまま流れ行く嬰児など,惨状ほとほと目も当てられず。(中略)

栗ノ木川に架っている沼垂の大橋の所へ来ると,濁流滔々,まさに沼垂町を呑み去らんとするが如き凄ましい
勢で流れている。栗ノ木川の両岸はすぐ家だ。危ない話である。白山社の前へ来てみると,白山社の境内はす
でに水に没し,神社だけが水の上に浮かんでいる。(中略)
木津から流れ込んでいる濁流は,滔々四方に泥濫して,今は姥ヶ山,山潟,山二ツ方面までひろがって,ため
に,中蒲原郡の大半は,ほとんど泥海の中に没入したという悲惨なる光景を現わしているのである。」とありま
す。
破堤以後の動きは,「水と土と農民」(亀田郷土地改良史)より読んでみます。        
この「木津破堤」という大正2年の阿賀野川の大氾濫は、中蒲原・北蒲原の両郡で,冠水耕地45,000町歩,浸水家屋12,000余戸という大きな被害をもたらしました。
阿賀野川改修を求める声が,この水害を機にして関係町村で盛り上がりました。
大災害を受け,北蒲・中蒲の代表者が同年11月に会合して,阿賀野川治水を求める運動を協力してやっていくことを決めました。
12月には,中蒲原郡役所で「中蒲原郡阿賀野川治水会」を結成し,国,県に対して阿賀野川改修の早期実現を訴えました。
新潟県議会は,改修事業費中の県負担予定分を,一括繰り上げ支出することをきめ,政府に対し大正4年度からの事業開始を要請しました。
地元の熱心な姿勢に押された政府は,大正4年4月に内務省告示をもって阿賀野川改修工事を決定しました。
工費800万円,9ヶ年間の継続事業で阿賀野川の馬下より下流36kmを対象に,河幅は馬下→論瀬間430m,論瀬→河口を900mと大幅に拡幅しました。
さらに,沢海付近での大蛇行の改善と川底の浚渫を行い,毎秒6,950mの流量まで耐えられる立派なものにしました。
また,小阿賀野川の分岐点に閘門を設置し,小阿賀野川破堤を防ぐように改善しました。
この工事も,第一次大戦や昭和恐慌などにより,当初予定していた工期ではとても終わらず,19年目の昭和8年に総工費1,200万円でようやく完了しました。
 
 
今回のお話のキーワード
中蒲原郡阿賀野川治水会
阿賀野川改修工事

第21回 大正二年の「木津切れ」は四個所の堤防を破って流れ込んできた洪水

2011.06.07

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四つの堤防を破った「木津切れ」(「新潟新聞」記事より構成)

Story

大正2年の木津切れと大正6年の曽川切れの二つで,亀田郷の大水害は終わりです。

この二つの大洪水は,亀田郷の水害対策に大きな転換をもたらしました。
今回は,大正2年の木津切れの様子を,当時の「新潟新聞」をもとに調べます。
大正2年8月27日の新聞には,長野発の通信と新潟測候所の報道として,
「26日夜来降雨甚だしく,鳥居川,千曲川はいずれも2,3尺ずつ増水せるが,夜に入るもやまざるにおいては,いきおい越後方面増水を見るべし。(長野電話)」
「信州地方に豪雨ありたるため,信濃川及び阿賀野川を始めその他管内各川出水の虞れあり。(27日午後
3時新潟測候所報)」と発表しました。
風速25m,730粍(973hpa)という猛烈台風が東京湾口に襲来したためでした。
「28日正午,中蒲原郡横越村大字木津字五本榎字二本木外三ヶ字共用阿賀野川樋管,本年伏設替のヶ所
約15間破壊し,ために大字二本木袋津の耕地の一帯より沼垂町まで浸水するに至れり。」
と木津破堤を新聞は報じています。
新聞をもう少し詳しく読むと,「阿賀野川筋木津破堤の原因は横越村においては,津川増水の通知を得,揚水機付近を油断なく警戒中,市新方面破堤の水流が,阿賀浦方面破堤の余流と合一して,満日村大字大蔵小阿賀野川堤防を突破し,その流勢の衝突したるため,警戒なき対岸五本榎の底樋よりたちまち堤防を欠壊するに至りたるものにして,その時刻は,一昨日(28日)正午なりき。(後略)」
「木津切れ」と呼ばれる大洪水ですが,小阿賀野川の堤防が木津で切れたという単純なものではありません。
この破堤は,まず,新津地区の市新と阿賀浦の二個所で阿賀野川堤防が切れたことが始まりです。
この二個所からの濁流が,小阿賀野川左岸の大蔵地区へ押し寄せましたが、そこに止まっていませんでした。
濁流は堤防を内側から突き破つて小阿賀野川に流れ出,木津側堤防の揚水樋管を破壊し,横越島に流れ込んだのです。
つまり,阿賀野川本流で新津地域左岸堤防二個所と小阿賀野川左岸堤防と右岸堤防の合計四個所を破堤したのです。
木津での破堤の前に三個所の堤防を打ち破り,それがそのまま木津付近を破ったという猛烈な洪水だったわけです。
今回のお話のキーワード
新潟新聞
四個所の破堤

第20回 曽川切れでの亀田町への救援物資

2011.05.10

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大正6年曽川切れでの亀田町の救援対策と各地よりの救援物資・義捐金などの記録

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東日本大震災で、連日のように被災地への支援などが報じられています。

大変な災害に遭った人々を支えようという、各地からの心の籠もった行動や支援物資、支援金などです。

このような人々の暖かい励ましが、実は、96年前に激甚な水災を受けた亀田の人々へもありました。それは、「曽川切れ」として歴史に残る大災害でのことです。

亀田郷土資料館に、大正6(1917)年10月の曽川切れでの水災に遭った亀田の人々への支援の記録がありました。その記録をご覧下さい。

この水害では、亀田町は全戸数1610戸中、床上浸水が742戸、床下浸水が173戸という災厄で、そのため、その日の食事に困窮する人も多数出ました。亀田町では、10月3日に直ちに新潟県に対して395戸1453人への緊急の炊き出しの実施を申請しました。

申請を受けた新潟県は、10月12日から10日間、町内の円満寺で炊き出しすることを許可しました。
一日一人4合の米と副食として750匁の味噌を支給することとなったのです。
炊き出し所の円満寺から、炊き出した食品を運搬する舟が18艘、荷車が11台借り上げられました。
10日間での炊き出しに掛かった経費は、1830円78銭でした。(当時の米価は、60kgが8円48銭)
ところが、同月19日に再び曽川で破堤があり、亀田町はまたも水没してしまいました。
亀田町では、再度、新潟県に対して22日から26日までの5日間の炊き出しを申請し、許可されました。
この炊き出しは、1318人を対象とするもので、一人当たりの分量などは前回と同様でした。
さて、この後、亀田町での炊き出しは、もう一回ありました。
曽川切れの翌年の大正3(1914)年1月、これまでにない大雪に見舞われたというのです。
水害以降のトリプルパンチのため、1月25日から2月3日までの10日間、88戸に炊き出しが必要でした。
また、このような炊き出しの他に、別の救恤もありました。
10月2日の曽川破堤で、午前11時より亀田町の耕地へ激流が流れ込み、冠水が数十日に及んだのでした。
そのため、収穫皆無は勿論、種穀籾を購入できない農家も121戸に及びました。
亀田町では、新潟県に申請をして53石1斗1升3合の種穀籾を受け取り、配布することができました。
1戸が、最大8斗から5升2合までという配布でした。
種穀籾は、新潟県からの他に、水災救援物資として各地からも亀田町に届いています。

水災救援物資は、水害発生の10月から翌年5月までの間、各地から次々と亀田町に届いたと記録されています。

現金:1794円79銭(米価対比で換算すると、およそ300万円くらい)  手拭:165筋  手拭(反物裏地、古着類一括):230反  蒲団:数量不明  白米:4斗5升  甘藷:4俵  塩鱒:百本  大根:885本

糯稲種子:1斗6升  高田早生種籾:8升  種籾:1石1斗5升  石白種子:1斗    

赤茎牛蒡種子五勺入:15袋  藁:5457束  柴:213束  調胃散:10ヶ

災難に遭った人々を思いやる行為は、人を憂うという優しい心の発露として日本人が持っている大切な心情です。亀田郷の水害の歴史からも、それを学ぶことができるのではないでしょうか。

 

     

 

今回のお話のキーワード
曽川切れ
炊き出し
種穀籾

第19回 亀田郷水害予防組合の設立

2011.04.08

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明治44年の阿賀野川下流部(「古地図で探る越後の変遷」より)

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大正2年8月,横越村木津での破堤で,横越嶋は広範囲に水没の被害を受けました。

それまで,嶋内の各地の水利土功会による小規模な排水機設置での水利事業を行っていましたが,基本的な治水策がたてられてはいなかったのです。
この木津破堤を機に,人々は,土地改良・排水機設置などのため,全域での治水組織を必要とする動きとなりました。
この地域では,新栗ノ木川への逆流防止閘門の設置その他の問題での利害の対立もありました。
そのため,全域的な組織を設立しての活動がなされていなかったのです。
大正2年12月4日,「水害予防組合設置ノ儀ニ付キ具申」が県当局に提出されました。
亀田郷10カ町村9,000町歩余,家屋8,169戸を対象とした「亀田郷水害予防組合」の設立の要請です。
県による組合規約設定,認可,中蒲原郡長の組合管理者への指定により,大正3年2月,亀田郷全域を関渉区域とし「阿賀野川小阿賀野川信濃川通船川ノ水害ナラビニ栗ノ木川ノ逆流防止ニ関スル一切ノ事業」の経営を目的とする「亀田郷水害予防組合」が設立されたのです。
大正5年,それまであった「栗ノ木川普通水利組合」の事業内容についても双方の組合で審議され,「亀田郷水害予防組合」に合併することが決められました。
「亀田郷」の名称は,この「亀田郷水害予防組合」の関渉区域と重なるものとして公的になったものと考えられます。
亀田郷の水害は,破堤・逆水と湛水です。
信濃川と阿賀野川という日本屈指の大河が,亀田郷を挟んでいるわけですから,洪水が起きないのが不思議です。
現在,この二つの大河には,本流,支流ともに多くのダムがあり,信濃川には大河津分水もあります。
しかし,昔は,そのような流れ下る大量の水をコントロールするものは,全くありませんでした。
信濃川は,甲武信岳を源とする千曲川と奥穂高を源とする梓川が合し,新潟県に入ると信濃川となります。
新潟県に入ってからも中越や下越の山々からの水も合流することから,日本一の流水量の川となります。
それが,昔は全て新潟の河口から流れ出ていました。
水量が多いため,亀田郷の栗ノ木川や通船川などに比べて,水位がとても高く,逆流して困らせました。
亀田に残る古文書には,「信濃川の水が込み上げ」という文字の書かれた水害が珍しくありません。
阿賀野川は,流水量は日本第三位といわれます。
尾瀬の山々を源とする只見川,福島県滝ノ原地区を源とする阿賀川,猪苗代湖を源とする日橋川などが合流して阿賀野川となって新潟県に入り,新潟へと流れ出ていました。
特に,満願寺付近で小阿賀野川と分かれるあたりの阿賀野川の蛇行は著しく,亀田郷の水害の大きな要因でした。
また,小阿賀野川の水が信濃川に流れ出にくいことも,亀田郷水害の大きな要因でした。
ダムや分水路などがなかった昔には,この二つの大河に挟まれた亀田郷は,大水害は当然だったと考えられます。
その上に,広範囲の海抜以下の低湿地であったわけです。
亀田郷水害予防組合は,そのような水害の防止,大河からの逆水防止,郷内の湛水排除のために団結したのです。
参加した町村は,横越,大江山,亀田,早通,両川,曽野木,鳥屋野,沼垂,石山,大形です。
亀田郷水害予防組合では,
 ア 阿賀野川の水路、堤防の改善
 イ 信濃川の堤防の改善
 ウ 通船川や栗ノ木川の逆水防止  この三つを緊急の対策として取り組むことにしたのです。
今回のお話のキーワード
木津破堤
栗ノ木川普通水利組合

第18回 新栗の木川開鑿

2011.03.07

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新栗ノ木川水路図(明治44年測図5万分の1地形図新潟より)

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江戸時代,横越嶋には,新発田藩領の村の他に,天領の村々がかなりありました。

そのため,洪水や排水,鋤簾(ジョレン)での泥浚いなどで,利害関係が複雑になる場合がとても多かったのです。
鋤簾での泥浚い訴訟で,文化年間には一年以上も双方の村々が江戸の幕府評定所で争ったこともありました。
明治維新以後,新潟県の管轄となったことで,それらはかなり緩和されました。
しかし,生活や生産と大きく関わる用水,排水の利害関係は,簡単には解決しません。
それらについては,旧版「亀田郷治水史」(昭和4年刊)に詳しい資料が集められています。また,亀田郷土地改良区の「水と土と農民」(昭和51年刊)に,解決に向けた経緯などが詳しく記述されています。
解決策の中核は,栗ノ木川の排水をどのようにするかということでした。
明治9(1876)年,沼垂町の八間堀を幅25間に拡張することの提案がありました。
さらに,栗ノ木川吐口に閘門を設置し,信濃川からの逆流を防ぐ意見も出ました。
しかし,そのいずれも合意には達しませんでした。
明治10年,沼垂地先の川幅を取拡げる工事がなされました。
明治17年,「蒲原村外八十一ヶ村水利土功会」を組織し,治水策について研究しました。
明治22年,逆流防止のため栗ノ木川水門設置の議が起こりました。
しかし,これについては栗ノ木川舟運業者などの反対もあって,翌23年否定されました。
明治25年,会議では,栗ノ木川分水路開鑿が提案されました。
五名の調査委員を挙げ,馬越地内より焼嶋潟に通ずる分水路開鑿の調査がスタートしました。
明治26年,「水利組合条例」実施に伴い,「蒲原村外八十一ヶ村水利土功会」は解散されました。
それに代わって「栗ノ木川普通水利組合」が組織されました。
この「栗ノ木川普通水利組合」の会合で,馬越浦より分水路開鑿の提案がなされました。
その提案については,賛否両派議員同数となり,議長採決で分水路開鑿が決定されました。
ところが,明治27年4月7日に,反対派の分水路開鑿反対提案が認められる事態となり工事中止が可決されました。
しかし,既に事業の一部も開始されていることから,5月7日,県知事命令でこの工事中止は取り消されました。
明治28年,栗ノ木川分水路事業は竣功され,いわゆる「新栗ノ木川」が開通しました。
これによって,栗ノ木川の排水能力は向上し,鳥屋野潟周辺では平均水位が6cmほども低下しました。
明治29年7月の大洪水で,木津が破堤し,さらに信濃川が栗ノ木川に逆流してきました。
上流と下流からの水害によって,亀田郷の町や村は大損害をうけてしまいました。
この災害から,栗ノ木川への信濃川からの逆流防止の閘門の必要が求められました。
翌30年7月,8月にも連続して被害が出たため,9月の会議で逆流防止閘門設置が提案され,可決されました。
31年1月に着工が決定され,竜ヶ島に板堰の閘門が作られ,閘門下流の堤防のかさ上げも行いました。
しかし,31年9月,洪水のために増水した信濃川の水が栗ノ木川を逆流し,板堰を破壊してしまいました。
木製では頼りにならないとして,石造閘門につくりかえられ,32年4月に完成しました。
この石造閘門完成によって,郷内は信濃川からの逆流による破堤被害はなくなりました。
明治41年,焼嶋潟内の土地を買収し新栗ノ木川を山ノ下にと連接させて流末を確保することが考えられました。
しかし,北越鉄道開通以来土地の売買が盛んとなり,買収額は容易に合意に達しないという事態にとなりました。
この問題は分水路の延長を土地収用法適用によって解決でき,明治42年2月に用地取得が可能となりました。
明治42年6月,栗ノ木川本流の川幅を十八間として流路を確定し,両岸を払い下げる話し合いがなされました。
新栗ノ木川開通で,町域の狭隘になやんだ沼垂町も,湛水で苦しんだ亀田郷も問題解決に一歩前進したのです。
亀田郷の湛水解決に大きく寄与したのは,大正11年に通水,14年に完成した大河津分水です。
大河津分水により,上流からの大量の水と土砂が分水路から海へと吐き出されました。
分水地点より下流の支流の水と土砂だけが,信濃川河口の新潟へと流れてくることになりました。
これによって,亀田郷は信濃川からの洪水の危険緩和と,平常時でも信濃川の水位低下の恩恵を受けました。
結果として,栗ノ木川,新栗ノ木川の水はけが良好となり,郷内の湛水排除が進展することとなったのです。
 
今回のお話のキーワード
栗ノ木川分水路事業
水利組合条例
大河津分水

第17回 亀田郷にとってはとても大切な「鳥屋野潟」

2011.02.08

Photo

横越嶋の海抜図(「国営かんがい排水事業 亀田郷地区 事業誌」より)

Story

現在の鳥屋野潟のデータは,新潟市のHPでは次のように書かれています。

流域面積 約99.8km2 ,潟面積 約190ha(栗ノ木川合流点~鳥屋野潟放水路), 約160ha,外周 約8km  

江戸時代の地図などを見ると,当時の鳥屋野潟は現在よりはよほど広かったようです。

近世初頭,信濃川の分流は和田地域から横越嶋内に入り,丸潟,長潟,鍋潟などを経て,鳥屋野潟に注いでいました。
他方では,鳥屋野潟の東側からは栗ノ木川への水路がありました。
信濃川との水路は,その後,両川地方の開発によってふさがれました。
近世中期以降,鳥屋野潟は栗ノ木川を通じて阿賀野川へ注ぎ,日本海とつながっていました。
鳥屋野潟は,亀田郷の人々の暮らしや農業にとって二つの大きな効用を果たしていました。
第一は,遊水池としての機能です。
横越嶋は,全面積の2/3ほどが平均潮位以下という日本でも指折りの低湿地,湛水地帯です。
この湛水地帯で,洪水や多雨による水害から田畑の作物を守るに欠かせないのは,排水路と遊水池です。
鳥屋野潟は,幹線排水路栗ノ木川とつながり,格好の遊水池として機能しました。
これは,現在も大切な機能としてしっかりと管理され,大雨が降っても人々の生活を守るために働いています。
鳥屋野潟は,湖面が-2mという海抜以下の湖で,横越嶋全域も砂丘地や堤外地以外は海抜以下がほとんどです。
信濃川,阿賀野川,小阿賀野川よりも低い土地であるゆえ,鳥屋野潟は貴重な遊水池として存在し続けているのです。
栗ノ木川などの水路を経て,鳥屋野潟に水を集めてから排水機場で排水する,これが鳥屋野潟の大切な働きです。
鳥屋野潟の保水力を減少させるということは,この地域全体にとってはあってはならないことです。
また,現在の親松排水機場と鳥屋野潟排水機場の排水能力を損なうこともないようにしなくてはなりません。
平成10年8月の水害は,親松排水機場の運転停止のアクシデントで水没地域を出してしまいました。
これは,遊水池と同時に排水のためにもある鳥屋野潟の機能を改めて知らしめるできごとでした。
この水害から,再び災害が起きないようにと鳥屋野潟排水機場が設置されたのです。
親松排水機場と鳥屋野潟排水機場の排水ポンプの能力は,学校のプールの水を3.2秒で空にするほどとのことです。
すごい排水能力をもっているもので,住んでいる住民としては信頼し,安心することができます。
第二の効能は,鳥屋野潟の湖底の泥土が,村々の開田を助けたということです。
農民が低湿地を切り開く際には,腰までぬかるような深田が多かった土地柄故に,そこに埋める土砂が必要でした。
その深田を少しでも浅くするための土砂を取るには,鳥屋野潟は格好な場所だったのです。
鳥屋野潟の泥土は,信濃川・阿賀野川が運んできたもので肥料分に富んでいます。
深田を浅くし,地味豊かな耕地とするため,郷内各地から舟に乗った農民が,競って泥土を浚いにきました。
昔は泥土をゴミとも言いましたから「ゴミ掻き,また、鋤簾(ジョレン)で取るので「鋤簾掻き」と言いました。
人々は,舟で運び帰った鳥屋野潟のゴミを,村の堤外地などに置いて腐蝕させ,翌春に田に入れるのでした。
遠くからもゴミ取りに人々が来るので,鳥屋野潟は次第に深くなったということです。
鳥屋野潟沿岸の村では,貴重なゴミを持っていかれないようにと,杭を打ったりして対抗することもありました。
とにかく,鳥屋野潟の泥土(ゴミ)は,この地域の農家の人々にとっては貴重な資源だったのです。
ゴミ取りは,鳥屋野潟からの排水が進められ,郷内の水田が乾田化し,土地改良事業が推進されるまで続きました。
 
 

 

 

 

 

 

 

 

今回のお話のキーワード
平成10年8月の水害
鳥屋野潟排水機場
鋤簾掻き